図書館に行ってきた。
図書館で働くことをお休みしているのに、やっぱり図書館に足が向いてしまう。
もともと、図書館という場所が好きなのだと思う。
いつでも手に取れるように整然と並べられた書架、探していた本を見つけたときの嬉しさ、借りた本がたいして面白くなかったときのがっかりも含めて、「図書館で本を借りて読む」という行為も、「図書館」という場所も、嫌いじゃなくて、好きなんだと思う。
予約した本を受け取って、その本を手に持ち、図書館の椅子に座る。
そのまましばらくそこで本を読んでみた。
読みながら、働いている方々の声をなんとなしに耳で追う。
行った時間が朝だったから、おはようございます、こちらへどうぞ、○月○日までの貸し出しです…などの言葉が飛び交う。
怒鳴るひとはおらず、みんな、カウンターが並んでいて混んでいようと、静かに順番を待っている。
そうなんだよなあ、おおむねはこういう状況で、怒鳴るひとなんて、たまに現れるくらいなのに、わたしはそれが怖くてあそこに立つことができないのだなあ、と、考えた。
借りた本を手に、図書館を出る。
借りたものは、自分の病気に関係する本ばかりだ。
図書館に関するきまりごとで、誰が何を借りたか、そのことは他人に知らせてはならない大事に扱わなければいけない情報で、また、誰が何を借りてもよく、その権利は保証されるべきものだ、というような考え方がある。わたしはこの考え方が好きだ。
今日わたしが借りた本を他人が見る機会があったなら、わたしがこの病気なのか、だれか親しい人がこの病気なのか、と、思われると思う。でも、それは実現しない。わたしがこの本を借りたことは、誰にも公表されない情報だからだ。そしてもちろん、単純に知的好奇心からこの本を手に取ってもよくて、そこに優劣はなく、図書館は誰に対しても等しく「情報」を提供する場所なのだ、というところが、良い。
そんなことを思いながらカフェに入り、本を読む。帰宅してからも読む。
自分の病気のことが書いてある本だから、当然っちゃ当然なんだけれども、膝をうつようなポイントが何個もある。ここにはわたしのことが書いてある。
病識を知ることは、正体を知るということ。
自分を振り回しているその中心に何があるのかを、知るということ。
そういうつもりで本を読むことにした。実践できる方法も色々書いてある。
その中で、昨日から、認知行動療法というやつの練習をしてみている。
ここのサイトで詳しいことが載っているので、もし興味があったらのぞいてみてください。借りた本に書いてあったサイトだから、そんなに怪しいものではないはずだけれども、そこはどうか、ご自身の判断で。無料で見られる部分と、有料の部分があります。