ぬくぬく日記

ぬくぬく生きていきたい。双極性障害Ⅱ型、不安障害があります。障害者雇用で働いています。

傷つきを考える

昔からそうだった。

自分じゃない誰かが、傷つけられているのをみることが、とても苦手だ。

自分のことではないのに、まるで自分のことのようにこころが抉られて、かなしみが溢れてくる。
さみしさが溢れてくる。


それは、自分のことではないから、と、目を背けたところで消しようもない痛みで、ずきんずきんと、手当てのしようもなく、生々しいまま、痛み続ける傷になる。


昔からそうだった。
今もそれは、変わらない。


何年か前に、電車のホームに落ちた男性を助けたことがある。


わたしたちは、バンドで出演したライブの帰り道で、くたくたに疲れていた。


終電にほど近い駅は、それなりに人がごった返していて、電車が来ることをぼんやりと待っていた。


そのとき、ごつん、と、鈍い音がした。


見れば男性がホームから転落しており、線路の上でうずくまっている。


その事態に気がついたわたしのバンドメンバーが、咄嗟に、緊急停止ボタンを押した。


抱えている機材をホームに置き、メンバー全員で、落ちた男性に手を伸ばす。

その場に居た知らない人たちも加わって、5、6人で、線路上に居る男性を引き上げようとした。


男性はなかなか引き上がらない。
手を伸ばしてくれるけれど、こちら側が引き上げる力が足りなかった。

すると、反対側のホームから、ひとりの若い男性が、さっと線路に飛び降りて、駆け寄ってきた。


電車が来たら危ないのに、その若い男性はためらうことなく落ちた男性のもとに駆け寄って、下から抱き上げてくれた。


その若い男性のおかげで、線路に落ちた男性はわたしたちの手を掴むことができて、なんとかホームの上に座ることができた。


落ちた男性を抱き上げてくれた若い男性は、颯爽と、もといたホームに戻っていった。


なんとか引き上げた男性を見れば、どこかからひどく出血している。
落ちた拍子に、顔を強くぶつけてしまったみたいで、あごから鮮血が溢れていた。

わたしとメンバーは、各々が持っているティッシュを差し出して、血を拭うようにすすめる。

男性は酔っているのか、何が起きたのか理解できていないみたいで、それでもしきりに、すみません、すみません、と、謝っていた。

わたしは、男性のあごにティッシュをあてながら、怖かったですよね、大丈夫ですよ、と、肩に手をおいた。
何度も背中を撫でさすった。


そのときだった。


ふっと、まわりを見渡せば、わたしたちを囲むようにして立っている人たちが、一斉にスマートフォンをこちらに向けていた。



撮影されている。


そう思ったとき、あたまは妙に冷静だった。


助けないことは、別にかまわないと思う。
電車が来たら危ないのだから、線路に手を伸ばして落ちた男性を引き上げようとしなくても、致し方ないと思う。
むしろ、反対側のホームから、線路を横断して、落ちた男性を抱き上げてくれたあのひとが、特別なのだ。
ふつうは、そんなことしない。
危ないのだから、そんなことしなくても、いい。


そんなことしなくてもいい、助けなくてもいい。


助けなくてもいい。
けれど、撮影はするの?


わたしのこころは、さみしさでいっぱいになった。


血が止まらない男性にティッシュを丸ごとひとつ渡して、かばんについた鮮血を拭いて、肩を、背中を撫でているあいだ、いや、もしかしたらもっと前から、線路に落ちた男性に手を伸ばしていたそのときから、このひとたちは、撮影していたのかな。


男性を駅員さんに引き渡して、自分の手についた男性の血をお手洗いの水でジャージャーと洗い流したとき、わたしのこころは、痛みでいっぱいだった。


酔って歩いていた男性が悪いのかもしれない。
自業自得と切り捨てればいいのかもしれない。
だけれど、落ちたくて落ちたわけじゃない。
怪我をしたくて、怪我をしたわけじゃない。
そうなってしまった、その事実があるだけで、石を投げてもいい対象になってしまう。
撮影してもいい対象になってしまう。


それっていったい、どうしてなの?
それっていったい、どんなきもちなの?


わたしには、カメラを向けるひとのきもちが、ひとつもわからなかった。


ただ残ったのは、さみしさと、やるせなさと、手当のしようのない、痛みだけだ。



傷つけられてもいいひとなんて、いないよ。
落ち度のある行動をしてしまった、その事実の前で、石を投げる許可が、誰かから降りるわけじゃない。
カメラをむけることは、暴力だ。
ただ何もしないでいることも選べたのに、カメラを向けるという選択をすることで、その瞬間、それは、暴力になる。


そうして、どうしようもない状況に陥ってしまったひとに、遠くから石をぶつけるんだ。


それは、ひとつの傷つきを産む。
ひとつの傷つきは、連鎖して、またひとつの傷つきを産む。


それって、すごくさみしいことなんじゃないか。
それって、すごく、かなしいことなんじゃないか。


わたしは今でも、あのときのことを思うと、痛くて、さみしい。
さみしさでいっぱいになる。


同じようなことが、今もあちこちで、起きている。
何もしないでいることを選べたのに、親指ひとつで、暴力をふるうことを選ぶひとがいる。


それって、さみしいことだよ。
それって、かなしいことだよ。
傷ついたひとに、石を投げる必要なんて、ないんだよ。


そうひとりひとりに言ってまわれたら、どんなにいいだろう。
それがおとぎ話だとしても、ひとりひとりに、石を投げることを、やめてくれませんかと、問うてまわりたい。


どうか、どうしようもない理由で、どうしようもない立場に立たされてしまったひとが、自己責任という言葉で、矢面に立たされたり、遠くから石をぶつけられてさらに傷つくような世界が、なくなりますように。


傷ついたひとを、さらに傷つける循環が、断ち切られますように。


いまもひりつく、こころの痛みを、撫でさすりながら思う。


どうか世界が、やさしい循環でまわりますように。
そんな夢物語みたいなことを、思ってる。