就職してから丸々2ヶ月が経った。
毎月1回は調子を崩して休んでいる。
今月は元気だな!と、昨日までは思っていたのに、夜からみるみる調子が悪くなり、今朝わんわん泣き、休んだ。
ずっと元気でいる、ということが、途方もないことのように思える。
元気じゃなくてもいい、「普通」でいられたら充分なのだけれども、それすら上手にできないのだなあ、と思って、今朝は、涙がだばだばと出た。
もっと早く、病院に通っていたら。
もっと早くから、自分の特徴に気がついて、ケアをしていられたら。
今頃はもっと、「キャリア」というものを積めていたのかもしれないなあと、最近ふと考える。
つまづいたのは、13歳のころだった。
あれから22年、そのうちほとんどを、「なんだか上手に生きられない」と思って、過ごしてきた。
もしも、を、数え始めたら、キリがないことはわかっている。
でもこうして、元気になったかも!と思った途端に臥せっている自分をみていると、もしも、もしも13歳のあの時から、適切なケアをしていたら、手を差し伸べてくれる誰かに出会えていたら、と、思わずにはいられないのだ。
わたしのからだは、たぶん、悲しさを溜め込みすぎてしまった。
悲しくて、やり切れなくて、という気持ちを、溜め込みすぎてしまったのだと思う。
だから最近、悲しさや、やり切れなさは、すぐに顔を出して、涙になる。
労りの言葉をかけてもらうと、すぐに涙が溢れて、苦しい気持ちが、苦しいと言葉になって、外に出る。
こんなことを、35歳を前にしてやっとできるようになって、その上で、ぱっと見るとたぶん普通なんだろうけれど、ちょっと調子の悪い人として、社会に居場所をもらって、労働をしている。
やっと、地に足が着いた感じがしていて、図書館の仕事は楽しく、役に立ちたいなあと思っているのに、それでも今日みたいに、臥せってしまって泣いてしまう日がなくならなくて、上手くできないなあ、上手くできないなあ、と、思っている。
進んでいるからだと、信じたい。進んでいるから変化があって、浮上するから、下降しているのだと、思いたい。
今日下降したのだから、明日はすこし、上向きになっていると、思いたい。
自分の特性を理解して頂いて、働いていても尚、わたしのからだからは、まだまだ悲しさがなくならないみたい。
焦っちゃいけないね。
焦らないで、少しずつ、役に立てるように、普通になれるように、目指していこう。
昔々、ともだちに言われたことばがある。
「毎日は、そんなに悲しいことばっかりじゃないのだから、もっと日常の、なんてことない側面にも、目を向けて、ものを作ってみたら?」
そのときは、そうだな、その通りだな、だめだなあ自分は、と思ったのだけれど、今思うと多分、わたしのからだは、そのときから悲しさでいっぱいで、だから、やるせないね、悲しいね、でも大丈夫だよ、というようなことばかり、作っていたのだと思う。
日常の、なんてことない、大切な瞬間をとらまえるには、すっきりとしたこころがないと、見つけられないように思う。
今日のような、喉元まで悲しみが迫り上がってくるような日には、窓から入ってくる春の匂いだけで、それを感じることだけで、精一杯。
せめてもと、日差しの匂いを胸いっぱいに吸う。吸いながら布団にくるまって、何度も何度も、浅い眠りを繰り返している。